SF的な選択性

 変えない選択を尊ぶというのは優しさのひとつなんだろうか。福島みず穂が「シン・ゴジラ」と「君の名は。」を観て、「3.11を取り戻したいという思いを感じた」とかいう2那由多中2点みたいな感想を吐いてたけど、果たして本当に3.11は取り戻していいんだろうか。

 たとえばあなたがポスト3.11の記憶を持っている状態で2011年3月以前の世界線に移れた時、避難勧告を出しますか(無論そういう権利があると仮定した際に)。というとYESと答える人が多そうだから、なら「このスイッチを押せば3.11が起こらなかった世界に行けますが、どうしますか」という聞き方だったら、これは割れるんじゃないかと思う。

 SF小説だと「あなたの人生の物語」とか「クリュセの魚」、カート・ヴォネガット・Jrの多くの作品なんかは、NOという選択を示した。逆に「夏への扉」や「時をかける少女」は概ねYESという答えだ。これらの作品だと問題の規模に違いが見られるけど、大体の方向性は合っていると思う。

 先に言っておくと、この文章中にぼくはこれといった答えは出せない。上に挙げている作品はどれも好きだ。ただ、強くぼくが揺さぶられたのはNOという答えを示す場合に多い。SF的に過去を変える選択の方が素晴らしいと感じるわけだ。これについては自分でも詳しい事由はわからない。こじつけるとこういうことになる。

 みんなの聖書である(そして聖書である故に過度の言及は不適切な)ジョジョの奇妙な冒険は、人間賛歌というひとつのテーマに一貫して描かれている。つまり人間の素晴らしさは前に向かって進める強さ、悪党だろうがヒーローだろうが前向きに強く生きようとする姿勢が素晴らしいというテーマだ。ぼくの心が無自覚にジョジョと深く結びついているからか、もしくはちゃんとこテーマに賛同しているからかは知らないが、ぼくはこの考え方こそがあらゆる創作に必要なものであると考えているし、尊敬すべき人間の感性だとも思う。自分の弱点や良くないところを自覚しながらも前向きに頑張って生きてみせることこそ、作品の受け手が影響されて然るべきテーマのように感じる。

 上記の「あなたの人生の物語」は似通ったテーマだと思う。過去と現在と未来に垣根を作らない宇宙人の文法に触れるうちに宇宙人の物の見方を得る主人公と、0歳~20歳の娘と私生活を過ごす主人公の2つの側面で進む中編に、ぼくは途轍もなく美しい価値観が彫られているように感じる。それは辛いことも人生の多大なる価値のひとつと認め、真向から享受するという強い歩き方だ。3.11の例でいうなら、3.11が起きたからこそ出会った男女も存在し、3.11があったからこそ生まれた命も存在するということだ。スイッチを押してしまえば、彼らの人生に対する価値を無に変えてしまう。

 この地球上に存在するものはすべて遠い未来にはなくなってしまう。太陽と接近してすべてが焼かれてしまう。でも人類の営みがすべて全くの無価値であるとは誰も思っていない。最愛のパートナーが道半ばにして亡くなったとはいえ、「あなたと出会わなければよかった」と誰もが思うのだろうか?その死をも吸収して前に進む姿勢こそ見習うべきだと、ぼくの読む教科書は言っているように感じる。

 かといって、3.11で失われた命があることもまた、聳え立つ事実だ。だからこそ、創作における姿勢の教えというものが活きるのだと思う。どちらが正解であると確信することはできないけど、事象そのものから目を瞑る選択よりも、事象を抱えて強く生きていく姿勢を示す作品にこそ心が動くという事実は、そう考えると納得がいくわけだ。