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君の名は。はダメだ。

 乱文を投下します。なぜ「君の名は。」がダメなのか説明します。検索ヒットのために感想とも書いておきます。

 映画「君の名は。」に感動する成人を信用しないでほしい。

 なぜならあの映画には幸福を追求するための理論性が失われているし、理論性を失った行動に心底から共感できる成人は精神的に未熟だからです(もちろん、物語にはある種の理論性を放棄した登場人物の行動というのはよく見られるし、それが感動を生むことだってある。でもそれは物語の展開として意味のある倒錯であったり、あるいはそれも結局理屈で説明できる範疇の話だったりする。そして実はあまり論理性が欠如した幸福追求のための行動の例が思い当たらないからとりあえず置くとする)。

 「君の名は。」について誰かと話す時にずっと訊いてきた。かたわれ時に「好きだ」と相手の腕に書いた主人公に感動する理由について述べてもらいたい。たとえば君に死ぬほど好きな女の子ができるとする。でも君にその子のことを思い出すことはできない。理由はわからないがとにかく好きな人の顔も名前もうまく思い描けない。でも好きな子がいるという実感だけが強く残り、また強く会いたいと思っている。そして君がその子と会うために(=自分が幸福になるために)努力し、その結果、なんと数分だけその子と会える時間が訪れたとする!そこでは君と君の好きな子は想いを伝えあえるし、数分が過ぎた後、再び名前を忘れてしまっても大丈夫なように、相手の肌に自分の名前を書くためのマジックペンの用意もしてある!ここまではいい。特に変なところはない。不思議な脚本の力でなぜか相手の名前も住んでいた街も思い出せないし携帯のメモ帳からもその子に関するデータが消去されていくけど、そしてこれを世間ではご都合主義というけど、まあそれについては優しいからつっこまないことにする。

 で、だよ。その時にペンで自分の名前ではなく「好きだ」って書くか??という話ですよ。

 これまで散々忘れて苦しんできて、この数分の時間が過ぎたらまた忘れる可能性が濃厚なのに、「好きだ」と書いてしまう先走った主人公の男のことを好きになれるのか???という話ですよ。もちろんこれはフィクションです。んなこたわかってます。でも人物の行動様式は現実に反射できるから美しくなりうるし、感動もできる。あなたはこの主人公の行動に共感できるんですか?本当に?

 名前を書くチャンスがあるのに自分勝手に「好きだ」と書き、そして相手の子に名前を書いてもらう前に数分が過ぎて、好きな子の名前を忘れてしまい、朝日に向かって「何も思い出せない!」とかひとりで叫んで涙をする男子、端的に言って気持ち悪すぎじゃないですか??こいつのことを心底気持ち悪いと思うのは本当にぼくだけなんですか??

 だって泣くほど悲しいなら名前を書けばいいじゃないですか!そうしたら忘れてしまってもひょっとしたら再会できる可能性はある。やるだけやったんだから泣いてもいい。でもあなた名前書いてないじゃん!名前書く前に好きだって書いちゃう早漏じゃん!幸せを追求するための行動をしていないのに幸せを逃して泣いててもただのアホでしかないじゃん!ダメだろ!

 ならそこで「好きだ」と書いて許されるパターンは?当然、相手の顔も名前も覚えていられる自信があるから名前を書かなくてもよかったケースです。つまり主人公の男はなんらかのトリックでも、もしくは根拠のない自信でもなんでもいいから、とにかく好きな子の名前を忘れないでいることができた。そして自分の力で後にその子に会いに行き、恋愛が成就する。こういう展開。これなら何の問題もない。自力で覚えていられるなら「好きだ」でもなんでも書けばいい。でもこいつ忘れたから!!!最低限の努力すらしないで相手の名前を記憶も記録もできないで泣いてるだけのバカだから!!!こんな間抜けに同情できる成人がいるのか?って話です。もしくは、主人公の女の子の視点に立ったとして、相手の男が名前を書くチャンスを自ら逃して「好きだ」って書いてきて惚れ直しますか??冗談だろ?これこそまさに100年の恋も冷める瞬間じゃないか?だってその男完全に刹那主義で今が感動できればいいって考えしてるよ?将来的に「この先のことはともかく今、君を喜ばせたくて」とかいってめちゃくちゃな借金背負って家とか船とかプレゼントしてきそうじゃん?完全に痛い奴やん?

 で、まあ理屈で話せば完璧にサイコパスである男の行動を、女の子の方が喜んで受け入れて、しかも最後は完全に運の力で再会して終わる話です。この2人に自分の幸せな未来に向かって行動する力も気概もありません。でもとりあえず映画として切り出されているこの2人の話としてはハッピーエンドで終わります。めでたしめでたし。

 こうなった時に、まあそれでも、そうだとして中学生の女の子なんかが感動するのは別にいいんです。「好きだ」ということを伝えることが何よりも第一であるという価値観に、青春真っ只中でまだ経験も浅い十代半ばの子たちが共感しても別にいいです。懐かしいけど恋空とかだってそういう話だったし。

 でもキモオタとか成人してる人間は感動しちゃ駄目だろ。こんな行動取ってる男に感動するキモオタも成人も気持ち悪すぎるでしょう。だってどこに感動する要素があるんですか?「すきだ」と男が書いた一連のシーンで感動できる理由をわかるように説明してほしい。ぼくは未だに聞けてないから。

 このブログでは、「君の名は。」について映像や音楽を除いて感動できた理屈を説明できる感想を常時お待ちしています。

 

※でも、実は本当に物語として精度が低いと断定できるのは別のシーンにあります。そもそも、ご都合主義というのがなぜ苦い顔をされるかというと、行動や結果に対する理由を用意した世界観を構築できなかったからに他ならないのですが(人間と人間が営む行動は現実も含めて殆どは理由に沿っている。創作でも作中の人物の行動を逐一説明できることが高い精度の脚本であると断定できます)、その言い方をすると、主人公の女の子が町長である自分の父親避難訓練をするよう説得したシーンを入れなかったことは最低です。本心から最低だと思っています。中身が男の子の時に父親を説得しようとした時は門前払いだったのに、中身が女の子になって説得をしに行った瞬間、避難訓練が行われいるシーンまで飛びました。これは話の結末に沿って進むために当然のこととして進行しているだけで、実際のところ父親避難訓練をすることに決めた理由は皆無です。単に娘が怖い顔をして会いにきただけです。本当にそれだけです。やろうと思えばいくらでも精度の高い理由づけができたにも関わらず(そんなことも思いつかない監督なのかもしれないけど)、そんな動機は必要ないとでも言うかのようにスルーされています。これは「君の名は。」という作品を作るスタッフが、誰かの行動に理由なんていらないものとして話を作っている証左です。だから「好きだ」って書くことの決定的な違和感にも気付けないんです。そして観る人たちも気付けないから評価が高くなり売れました。こういう行動を取るということはこういうわけである、という思考を持たない人々が持たない人々のために作りそれが成り立ったということは、これは双方がコミュニケーション障害であるということです。つまりこの国、多くの若者がコミュ障なんです。泣けませんか?ふつうは空しくなると思います。

 

 商業的にはそりゃ成功ですよ。でもこんな話は責任を負うべき立場の大人たちにウケるべきではないです。あそこで「好きだ」と書いてしまったなら、それはもう2人はこの先一生会えないということを意味します。一時の快楽(名前ではなく想いを書いてしまう)のためにその先を捨てた人間の行動なのだからそうなって然るべきです。そしてこれまでの新海誠ならそうなって終わるはずでした。でもその結末だったらウケないことくらいはわかったらしく、最後は不思議な力で結ばれることにしました。たったそれだけで受け手は大喜びで大絶賛、バカ売れ。

 アホかよ。

 この先、優秀なクリエイターになる可能性を持っている人たち皆、べつにこんな国で精度が高く論理的に正しい話を書く意味はないですよ。死ぬほどテキトーな脚本でも映像と音楽で盛り上げればゾンビ達にウケます。ゾンビも1人あたり1000円2000円なら払えるのでそれで儲かります。脳の腐敗した人間相手にボロい商売をしていきましょう。

 

 と、ここまで書いて、ぼくのこの怒りのような感情は、今書いた最後の部分に集約しているんだろうと気付きました。(多重的に)意味があると自分で思える話を誰かが書いた時、ちゃんと評価される世の中なんだろうか。いずれの創作も受け取る人に正当に伝わらなければ無意味なはずです。受け手も重大な役割を果たしてるんです。ちがいますか?